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写真協力:© K. P. V. B.    



南薩移民史秘話


「二つの祖国に生きて」

An Immigrant story from Nansatsu-Southern Satsuma


南薩移民史秘話の背景

  2002年から二年間米国カリフォルニアで「南加鹿児島県人会」会長を務められた故上村民夫(うえむらたみお)氏は米国で誕生し、一度教育を受けるために日本に行き、戦後米国に戻られた「帰米二世」で、カリフォルニアで短歌を普及する活動に取り組まれた歌人(雅号「南水」)でもある。
  本稿は南カリフォルニア在住の南水翁のご長女が、家族保存用としてまとめておられた「上村南水の年譜」に沿って日米での足跡を縦糸に、南薩地域の米国渡航者についての調査研究「鹿児島県南薩地域からの海外出稼ぎ者と海外移民-米国カリフォルニアへの渡航者を中心に-」(鹿児島経済大学社会学部論集 川崎澄雄氏 1985年)に採録された古老の海外渡航関係者への聞き取りを横糸に、鹿児島県人の国際化のパイオニアとなった米国における一世・二世のご苦労を偲びたい。

 上村南水翁について
    南水翁は鹿児島県揖宿郡頴娃町から渡米した両親の長男として1925年(大正14年)米国カリフォルニア州ロサンゼルス市で誕生し、両親の方針で日本の教育を受けるため6歳で帰国した。太平洋戦争時には日本軍に召集され、終戦を迎えて結婚、1960年(昭和35年)に米国ロサンゼルスへ帰国する。

  帰国後は、父上のガーディナーの仕事を継ぐかたわら、日本で興味を覚えた短歌のカリフォルニアでの普及に尽力される一方、県人会活動では世代間の融和に心を砕かれ、さらに英語世代へ向けた鹿児島との絆の強化に努められた。
2003年(平成15年)には県人会内に英語を話す2世3世で結成された「鹿児島ヘリテージクラブ」所属の一行18名を率い鹿児島を訪問された。

  同氏は旧制中学在学中大好きな西郷南洲にちなみ短歌の制作に当たって雅号を「南水」と称し、以降この雅号を使用しておられ本稿でも南水翁あるいは「翁」として使用する。(以下敬称略)





鎌倉に短歌の師 大田青丘御夫妻をご夫婦で訪問
(南水翁は右端、1991年 歌集「二つの祖国に生きて」より)


 翁誕生前夜の鹿児島からの海外渡航

  翁のご両親はその兄を頼ってロサンゼルスに渡航したが、翁が誕生した時(1925年・大正14年)32歳との記録があることから推定してその数年前に渡米したと思われる。

  鹿児島県史によると大正5年(1916年)の海外在留の鹿児島県人は約4,490名で、米国には1,635名が記録されている。  南薩地域の米国渡航者についての調査研究「鹿児島県南薩地域からの海外出稼ぎ者と海外移民-米国カリフォルニアへの渡航者を中心に-」(鹿児島経済大学社会学部論集 川崎澄雄氏 1985年)は、海外渡航関係者からの聞き取りが多数収録されているが、それによると南薩地域からの海外渡航(出稼ぎ)は西南戦争(1877年)以降との説がある。


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1890年代北米に県人組織
  南薩地域から米国への渡航者の先駆けは、西南戦争後の明治10年(1877年)に渡米した知覧上郡(かみごおり)集落の的場八束(まとばやつか)という説がある(渡航年については異論あり)。彼はサンフランシスコでカツオ漁船を保有して財を成したというがその後の消息はつかめていない。

  一方「南加鹿児島県人誌」によると当時のサンフランシスコ周辺には約1,000人の日本人がいたという。1890年代に入るとサンフランシスコを中心とした鹿児島県出身者による北加鹿児島県人会が組織され、1895年にはロサンゼルスに北加鹿児島県人会南加支部が発足するなど、鹿児島県出身者は増加している。

  翁の出身地である揖宿郡頴娃においては、1894年(明治27年)に渡航した摺木(するき)集落の摺木寅吉と前村松之助が最初の渡航者といわれる。
  彼らは石工として働いていた知覧門之浦の医院の佐多征二医師からメキシコ移住を薦められ、メキシコにわたりそこから砂漠を越えてアメリカへ密入国している。
その目的は、生産性が低い畑、台風常襲地帯である頴娃での生活を立て直すための「出稼ぎ」であったという。

  薩頴新報第83号(昭和3年4月10日発行)の1926年(昭和2年)の鹿児島県の「県外出稼ぎ状況」によると、鹿児島県からの出稼ぎ先は大阪に次いでアメリカ(本土)が多いことからも、上記の様子が推し量れる。
しかしこのような状況も、米国内での東洋人排斥運動の高まりによる米政府の移民政策の変更で大きな岐路に差し掛かる。


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