江戸時代中後期の外国船来航の主な記録
歴史に記録される範囲では、「鎖国」は第2代将軍秀忠に始まり、第3代将軍家光の時代に完成したといわれる。江戸幕府は、1673年リターン号(イギリス)によるイギリスとの交易申し出を拒否し、これ以降オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。 しかし18世紀後半から19世紀中頃にかけてロシア、イギリス、フランスそして米国などの艦船が日本に来航している。記録に残る主な来航は以下の通り。
- ● 1778年(安永7年)ロシアの商人がアッケシに来航
1778年ロシア、ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンがアッケシに来航。松前藩に、交易を求めるが拒否される。
- ●1787年フランスの探検隊が日本近海を探検
1787年(天明7年)、フランス王国のラ・ペルーズ探検隊が日本近海を航海、千島列島、琉球列島を探検した。
- ●1791年米国の探検家が現る
1791年(寛政3年)、米国の探検家ジョン・ケンドリックが2隻の船と共に紀伊大島に到着、11日間滞在した。日本を訪れた最初の米国人。
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- ● 1792年ロシアから貿易を求めてアダム・ラクスマンが根室に来航
1792年(寛政4年)ラクスマンは、伊勢からの漂流民、大黒屋光太夫他3名を伴い貿易を求めるが、幕府は拒否。しかしロシア船の長崎港入港許可を与えた。 1800年、伊能忠敬が幕府の命により蝦夷地測量を開始する。
- ●1804年ロシアから、ニコライ・レザノフが出島へ来航し貿易を求める
1804年(文化1年)ニコライ・レザノフは、ロシア帝国の使者として正式に国交樹立のため来日したが、半年間出島近くに留め置かれ最終的は通商の拒絶を通告され装備も食料も不十分のまま出航。
このころ、ロシアやイギリスの軍艦が通商を求めて日本近海に現れることが増え、またアメリカの捕鯨船などが寄港地を求めて日本に立ち寄ることもあった。 幕府は対応に苦慮し、1806年(文化3年)に「文化の薪水給与令」を発令し、立ち寄った外国船に対して燃料や食料の補給を認めた。
- ●1806年ロシア、ニコライ・フヴォストフによる北海道襲撃
1806年(文化3年)日本との交渉に携わったレザノフの部下が武力により利尻島・択捉島を襲撃する事件「文化露寇」が発生。日本人がロシアに連行され、防衛に乗り出した幕府軍も大きな被害を出す。
- ●1807年ロシア船打払令
国防の強化の必要性を感じた江戸幕府は文化の薪水給与令を廃止し、1807年(文化4年)にロシア船打払令を発令した。
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●1808年イギリス軍艦「フェートン号」侵入事件
1808年10月4日(文化5年8月15日)、ナポレオン戦争によりフランス領であったオランダと交戦国の関係にあったイギリス軍艦「フェートン号」がオランダ船拿捕を目的に長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質に取り食料、燃料を強要するフェートン号事件が起こる。佐賀藩による長崎港警護体制の不備により、フェートン号は港外へ脱出する。この事件は当時の為政者に深刻な衝撃を与え、幕府の海防政策強化を促し、後の異国船打払令(1825)発布の契機となった。 また軍艦ではなく漁船の来航も増加した。 これは、日本近海に良質の捕鯨の漁場があり、異国船の出没は次第に増えていった。
- ●1824年水戸藩の大津浜事件
1824年(文政7年)英国捕鯨船数隻が水戸藩大津浜」沖に停泊し、英国人乗組員が上陸。船内に壊血病者がいるために新鮮な野菜や水を補給するために上陸したことがわかり、これらを与えて船員を船に帰した。
- ●1824年薩摩藩の宝島事件
1824年(文政7年)英国捕鯨船乗組員がトカラ列島にある宝島へ上陸し、島民に牛を譲渡するように要求したが、在番および郡司が拒否したため、20名から30名程度のイギリス人が島に上陸し牛3頭を略奪した。
更に、同年水戸藩の漁師が数年前から欧米の捕鯨船の乗組員と物々交換を行っていたことが発覚。
このように、多様な目的での来航・乗組員上陸であるにもかかわらず、幕府の対応は場当たり的かつ従来の外国船の来航を武力によって防止する姿勢を維持していた。さらに上陸してきた外国人と日本の民衆との接触を阻止することを目的として、当時貿易をしていたオランダ・清(中国)以外の日本沿岸に来航した外国船を見つけ次第砲撃することを命じる異国船打払令を1825年(文政8年)に発令した。
しかし、これらの発令も自主規制であり、周囲を海に囲まれた日本へ欧米船の来航は続くことになる。
このように日本が諸外国に対して強硬姿勢をとっていた時期に米国船モリソン号事件は起こる。
- ●1837年アメリカ、モリソン号事件
 1837年(天保8年6月28日)アメリカのモリソン号が日本の浦賀に来航した。その目的は漂流救助した日本人船乗り7名の送還と、通商とキリスト教布教を目的としており、武装はしていなかった。
しかし、来航したモリソン号は英国軍艦と勘違いされ、浦賀奉行所は異国船打払令に従って砲撃した。退去させられたモリソン号は薩摩藩に向かい再び交渉を行うが、交渉は拒否され威嚇射撃を受け、これにより日本との交渉を断念したモリソン号は帰港した。
モリソン号事件後の動き
幕府はモリソン号を退去させるのには成功したが、この砲撃で日本の防備の脆弱性があらわになった。
実は、浦賀で撃った大砲はほとんどモリソン号には届かず、また日本の大砲の弾は、炸裂しない鉄の塊であったので船に被害は少なかったが、モリソン号には武装は無かったので日本を離れたが、突如現れた外国船に奉行所はうろたえていたのが実情であった。
1838年、事件の一年後オランダ商館を通して、このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら7人が乗っており、モリソン号はこの日本人漂流民の送還と通商・布教のために来航していたことが1年後に分かり、異国船打払令に対する批判が強まった。
このような状況下、幕府では、今後の対応について審議が行われ、漂流民はオランダ船による送還を認めるという」ということが決議されたが、しかしこの議論の中で「漂流した日本人の送還は一切認めず、外国船は徹底的に打ち払うべき」という強硬な意見があったことが、国民の反発を買うこととなった。 これを受けて渡辺崋山や高野長英など蘭学者、儒学者が異国船打払令や幕府の対外政策を批判したため幕府の弾圧を受けた(蛮社の獄、1839年)。
一方その後日本に現れたペリーは、日本は無差別に攻撃を仕掛けてくるということを教訓にしては完全武装で日本へ向かったという。
このようにモリソン号事件により幕府は防備の弱さを露呈し、国内外から批判を受けることとなったが、さらに幕府を動揺させることが起こる。
それがイギリスと清との間で1840年~1842年に起こったアヘン戦争にイギリスが勝利したことである。日本はそれまで清を高い軍事力を持つ大国と考えていたため、その敗北に衝撃を受けたのである。
幕府は、オランダに風説書(ふうせつがき)の提出を義務付け国際情報を得ていたが、アへン戦争が起きると、これとは別により詳細な情報(別段風説書)を入手した。 1840年(天保11)から1843年(天保14)まで、出島のオランダ商館長から提出された4通の別段風説書の日本語訳をまとめた『阿片招禍録』には「唐国にてエケレス人阿片商法停止ニ付記録致候事」等の表題が付けられ、戦争の経済的背景と戦闘の具体的様相、締結された条約の内容まで、アヘン戦争の一部始終が詳しく報告されている。(国立公文書館所蔵、画像クリックで拡大)
それまで、異国船打払令により日本沿岸に来航した外国船は見つけ次第砲撃するという強硬姿勢をとっていた日本であったが、それが原因となり戦争が起こる危険性や報復を受ける可能性があること、そしてモリソン号事件のように調査を行わずに無差別に砲撃を行うことは、国内外からの批判が高まることも考えられることから方針転換を行う。
幕府は諸外国との戦争を避けることを目的として1842年に、まず来航した外国船を調査し、必要があれば食料・燃料の補給を認める天保の薪水給与令を発令した。
続く来航船
こうしてモリソン号事件がきっかけとなり、江戸幕府は対外政策の方針転換を行い、これが後の開国への動きへとつながっていくがその実、海外からの来航は続く。 日本国内では、1833年ころから1839年まで続いた「天保の大飢饉」直後の混乱や、大塩平八郎の乱(1837年)などで市中に混乱が残っていた時代でもある。 ペリー来航までに発生した主な事例は次の通りであった。
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●1844年(天保15年)、フランス海軍のフォニエル・デュプラン大佐が率いる遠征隊が琉球王国に来航、通商を求めるが拒否された。しかし、テオドール・フォルカード神父と通訳が那覇に残った。
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●1844年8月14日(弘化元年7月2日)、オランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王ウィレム2世の将軍宛の親書を携えていた長崎に入港。この親書はシーボルトの起草によるもので、開国を求めたが幕府はこれを拒否した。
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●1845年(弘化2年)、米国捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、マーケイター・クーパー船長は浦賀への入港を許可され、浦賀奉行と対面した。
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●1846年7月20日(弘化3年閏5月27日)、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドル代将は戦列艦コロンバスおよび戦闘スループ・ビンセンスを率いて、開国交渉のために浦賀に入港した。しかし、条約の締結は浦賀奉行に拒否され、数日の滞在で退去した。浦賀にアメリカの軍艦が出現したことを受けて、幕府では無二念打払令の復活が検討された。
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●1848年(弘化5年/嘉永元年)、米国人ラナルド・マクドナルドが、日本人に英語を教えたいと自らの意志で、遭難を装って利尻島に上陸した。その後長崎に送られ、崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの半年間の間、ここで通詞14人に英会話を教えた。帰国後は、日本の情報をアメリカ合衆国本土に伝えた。
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●1849年(嘉永2年) 東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に渡航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。
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