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維新前夜の太平洋
-鎖国から日本開国に至る世界事情-

(補遺) 明治新政府と士族

 明治維新で最も大きな影響を受けたのは、それまで藩や幕府から報酬「禄」を得ていた「武士」そしてその武士の下働きをする「卒」という武士の禄で生活をしていた層である。これら士族(卒族を含む)は、欧州における騎士が国王や領主と双務的契約関係で保護されていたのとは異なり、儒教や武士道を基本とした主従関係により世襲を保障されていたと言える。このような情勢下欧米の制度を形式的に日本国内に持ち込んだため多くの軋轢が発生した。

 これらの武士は、幕府あるいは藩政府から収入を得ていたと考えられるから、収入源については現在の「公務員」に近いと考え、明治政府が分類していた「士」「卒」について、現在の公務員制度の観点から検討する。

「士族」の人口構成比は現在の公務員の約二倍

 明治5年(1872年)の戸籍調査によると、その当時自分を「士族」あるいは「卒族」と名乗る層が約192万人いた。これは当時の人口約3310万人の約5.8%に相当する。

 一方、平成28年(2016年)の国家・地方公務員ならびに地方公共団体の長、議員の総数は約305万人で、日本の総人口が約12500万人であるから、公務員等の比率は2.4%と計算できる。

 つまり、明治維新のころには、現在の約2倍超の公務員がいたこととなる、しかし幕末のころは諸藩も幕府もこれら士族(卒族含む)へ禄を満足に支払うだけの財政力がなかったため、明治新政府はまず、このような事態を踏まえた対応を考えねばならなかった。

江戸時代の武士の割合

  江戸幕府ができて約100年後の1700年頃の日本の総人口は約2800~2900万人であったとの推計がある。これが明治3年(1890年)には3000万人超となった。江戸時代の諸藩の武士の割合ならびに国民に占める割合は以下の通りとの研究がある。

  主要な藩の武士の割合
    ・南部藩 6.9% (1711年)
    ・久保田(秋田)藩 9.8% (1849年)
    ・陸奥中村藩 26.0% (1681年)
    ・津和野藩 7.2% (1805年)
    ・薩摩藩 26.38% (明治4年鹿児島県禄高調)

士族の没落

 江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀や殺人権(切捨御免)などの身分的特権を持っていた。
しかし、武士は、江戸時代における平和を通じて貴族化し、内外の問題にも無関心になり、百姓が納めた年貢にのみ依存する存在と化した。

 こうした旧来の封建制的な社会制度は、明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で、武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。

 士族の特権は段階的に剥奪され、1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。
秩禄制度は1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。
そして、1876年に金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。
また、苗字の名乗りは1870年に平民にも許可され、1875年には義務化された(国民皆姓)。

 この他、1871年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。
一時、士族に華族と別立ての爵位を授与しようという議論が岩倉具視らにより模索されていた。

 1876年(明治9年)の木戸孝允らの案では、華族に公爵、伯爵、士族に士爵の爵位を授けることが構想されていたが、木戸の死と士族の反乱などが重なり、沙汰止みとなった。 その後、明治新政府の元勲であった伊藤博文から維新に功労があった武士を勲功華族とする案が提唱され、これが採択されることにより、明治の元勲らは勲功華族として取り立てられる一方、一般の士族に対する恩典は名字帯刀や秩禄はおろか、名分上の栄誉さえも許されず、単に戸籍における族称のみが士族に許されただけであった。


西南の役後日談

 西南の役は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱とされる。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のものであった。

 この戦争による官軍(政府軍)死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社(日本赤十字社の前身)が活躍した。
 また、特に顕彰されたわけではないが、類似した例に熊本の医師・鳩野宗巴が、薩軍から負傷兵の治療を強要された際に、敵味方なく治療することを主張し、これを薩軍から認められ実施したことが挙げられる。
 宗巴の行動は戦後、利敵行為として裁判にかけられたが、結局無罪判決を下されている。 当時の鹿児島県令大山綱良は官金を西郷軍に提供したかどで逮捕され、戦後に長崎で斬首された。

 これら士族の波乱は鎮圧され、多くの士族は没落して故郷へ帰るなどしたが、一部には知識や人脈、既得権益を生かして実業家に転向する者も見られた。
 例えば、日産コンツェルンの創始者鮎川義介、日本初の百貨店(三越百貨店)創立者日比翁助などが挙げられる。

 また、士族銀行や殿様銀行と呼ばれる士族の資産を活かした銀行(国立銀行)が設立され、日本の殖産興業政策を活性化させた。武芸や学問に通じた者は、軍人、警察官、教師など官吏に転向したり、かつての藩主と藩士の縁故関係から、県・郡役所に採用された例も多い。
 酪農のように、元来の農民がこれを忌避したがために、士族がこれを手がけて成功した例もある。