写真協力:© K. P. V. B.    

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鹿児島のパイオニア群像
-市井の挑戦者たち-

Pioneers to the New World

濱 崎 太 平 治
Hamasaki Taheiji
1814年-1863年(指宿市)
明治維新の原動力となった薩摩藩の財政立て直しに貢献した、幕末の西日本の海運王

濱崎太平次(はまさきたへいじ)は、文化11年(1814)3月23日に薩摩国指宿村湊(鹿児島県指宿市)に、海運業を営む七代目浜崎太平次の長男として生まれる。(文久3年(1863)6月15日 50歳で死去。
濱崎太平次は薩摩の豪商として、紀州の紀伊國屋文左衛門、加賀の銭屋五兵衛とともに江戸時代の「三大豪商」のひとり。商号はヤマキ(山木屋)、日本の豪商番付で東の最高位(大関)「三井」に対して、西の大関が「湊屋・濱崎太平次」であったといわれる。)


民間有志によって建てられた第八代濱崎太平次像

濱崎家
家系図によれば濱崎家の先祖は、國分村(現在の鹿児島県霧島市国分)八幡宮の神官であり、今からおよそ 350年前(17世紀中盤)、現在の指宿市十二町(じゅうにちょう)の湊(みなと)に転居し、海運業「山木屋(ヤマキ)」を興した。




指宿温泉開拓と島津家との縁
特に、五代目の太左衛門は海運業をさらに発展させ、また指宿村の長井温泉に島津氏へ別荘を寄贈したことがきっかけとなり、島津家と濵崎家の関係は明治まで続く。さらに太左衛門は斉宣公の命により、長井温泉に湯権現(ゆのごんげん)を造営し、指宿の温泉開拓の拠り所とした。



この頃、時の藩主(斉興、斉彬、久光、忠義)の行き来が頻繁で、濱崎家の屋敷は御殿造りの堂々たるもので、屋敷前の道は御本陣馬場と呼ばれ、死人の棺(ひつぎ)が通ったり、青年などが放歌したりすることが禁じられていたといわれている。

濵崎家は、第六代目から太平次を名乗るが、温泉開拓の功が認められ海運業の手形を受け荷物を運漕する権利を与えられ、海運業を大発展させる礎を築いた。


調所広郷の後援
しかし太平治が八代目として跡を継いだ時、家業は凋落しつつあった。家業立て直しのために、琉球貿易を始めた太平次は、薩摩藩の財政改革を担っていた調所広郷と出会い、藩の御用商人として、薩摩藩の財政立て直しのための密貿易の仕事をするようになった。このことは八代目太平次が成功する発端であった。文政期(1818~1830年)、薩摩藩の借金は 500万両の巨額に達していて、参勤交代さえもままならぬ窮状であr、天保9年(1838年)調所広郷は家老職につくと藩の財政改革に着手した。


太平次の活躍
長ずるにともない、父祖の遺業である造船にも力を注ぎ30余隻の大船を造り(これは生涯を通じての船数で、安政2年(1855年)頃の持船数は8隻であったらしい)、琉球諸島および九州・四国の主たる港や大坂、新潟、北海道などに航海し、さらに支那の南部廈門(アモイ)やジャワなどの遠くにでかけて商品を売買した。


太平治の造船所と思われる写真


また、太平次は、指宿村二月田(にがつだ)の温泉行館(殿様湯)の建立や新田地区開発にともなう神社の建替、谷山筋整備に伴う今和泉道の引き直しなどに対して度々献金した。文久2年(1862年)薩摩藩がミネヘル銃を購入する際、他の商人先がけて2万両を調達したことは、太平次が豊富な資金力を持っていたことの証左である。


太平次の寄与はそればかりではなく、琉球より洋糸を入手しそれを藩主斉彬公に献上して、それをきっかけに紡績機械をイギリスのブラット商会に注文し、藩営紡績工場の操業開始を支援するなど多方面にわたった。

一方で、調所広郷の内命をうけて密貿易や砂糖運送などで薩摩藩の財政再建に貢献した。
調所広郷の財政改革は、商人の借金を無利子で250年の分割払いにさせ、琉球を通じて清と密貿易を行ない、大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制にし、商品作物の開発などを行うことで、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政を回復させることができた。(写真:濵﨑太平次鹿児島屋敷と思われる


太平治の遺産
明治維新の5年前、1863年に太平治は大阪で客死しその後濱崎家は断絶したといわれている。

しかし、2016年8月に開催された「海上交通システム研究会第130回例会」の資料(岡本洋氏)によると川崎重工の創業者で(最初の私立美術館創設者でも)あった川崎正蔵翁(1836年生まれ、鹿児島市大黒町出身、右写真)は太平治のもとで約12年間勤務したとの説(三島康 説)があります。


川崎正蔵若かりし頃の写真



この説によると同翁は14歳(1852年)で太平治の「山木屋」へ就職、16歳(1853年)で山木屋長崎支店に勤務したとされています。さらに貿易に着目して藩庁を説き、西洋型帆船数隻を購入して薩摩国産物を畿内に輸送、巨利を博した、との評価が見られることから、八代目太平治の遺志を継いだと考えることもできそうです。

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