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実業家として
明治4年(1871年)上京し、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行った。翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させた。 この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになる。
1878(明治11)年、時の大蔵大輔(現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助があって、東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設、造船業への第一歩を踏み出した。
- 明治11年(1878年)築地造船所開業
- 明治13年(1880年)兵庫川崎造船所を開業
- 明治19年(1886年)には官営兵庫造船所の払い下げを受けて、明治20年(1887年)川崎造船所(現・川崎重工業)を設立
- 明治29年(1896年)川崎造船所を株式会社に改組し、自らは顧問に退く
- 明治31年(1898年)「神戸新聞」を創刊
- 明治38年(1905年)神戸川崎銀行を開設、監督に就任
美術愛好家として
明治29年(1896年)に第一線を引退してからの川崎正蔵は美術収集家として社会的に有名であった。 正蔵は仕事で他家を訪問するごとに、家屋や庭園、さらに床の間の書画、置物、装飾品にいたるまで、深い注意を払うのを常とし、これがおのずから美術鑑賞眼を養った。 そして、家屋、庭園、美術品は川崎の唯一ともいうべき趣味であり、自分の大志を励ます何よりの刺激剤であった。 川崎の美術収集は、彼の造船業への参入の動機と同じように、明治時代に生きた人間らしいナショナリズムに基づくものであった。 当時、明治維新後には日本の伝統的な美術品は欧米の美術愛好者のために輸出されることが多くなり、多くの名品が日本で見られなくなる状態が出現しつつあった。 川崎はこのような伝統的美術品が国外へ流出することを恐れる心情も手伝って、明治11年に築地造船所の経営に着手したころからおりにふれて美術品を収集し始め、生涯にわたって2000余点の名品を買い集めた。 そして明治18年から着工した神戸の布引の豪壮な本邸内に美術館を建てて、自分の収集した名品を陳列し一般に公開した。
川崎正蔵の後継者:松方幸次郎 川崎造船所が発足して7年後の1894(明治27)年に日清戦争が勃発すると、長らく低迷していたわが国造船業は、にわかに活気づきました。川崎造船所も船舶の修理を中心に注文が殺到し、繁忙を極めました。
こうした中、創業者 川崎正蔵は個人経営の限界を感じ、日清戦争が終わった直後、会社の将来の発展のために株式会社への改組を決意しました。
齢60に近く、事実上、後継者がいなかった正蔵は、同郷の先輩であり自分の事業の恩人でもあった松方正義の三男・松方幸次郎を後継者に選びました。
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